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ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ(、? - 1153年〔Л.Войтович 3.6. СВЯТОСЛАВИЧІ. ЧЕРНІГІВСЬКІ, МУРОМСЬКІ І РЯЗАНСЬКІ КНЯЗІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ 〕あるいは1155年以前〔Иловайский Д. И.〕)はムーロム公ヤロスラフの子である。プロンスク公:1129年 - 1143年、リャザン公:1143年 - 1145年、ムーロム公:1145年 - 1147年、1149年 - 1153年。 ==生涯== ロスチスラフは、父の没した1129年より、兄弟のスヴャトスラフらと共にリャザン公国を共同統治した〔Воскресенская летопись〕。すなわち、スヴャトスラフがリャザン公国を領有し、ロスチスラフはプロンスク公国を領有した。また、ムーロム公国は別の兄であるユーリーが領有した。 1143年、ムーロム公の兄ユーリーが死亡すると、兄弟のスヴャトスラフがムーロム公となり、ロスチスラフはリャザン公となった。その2年後の1145年にはスヴャトスラフも死亡し、ロスチスラフはムーロム公となった。このときには、リャザンにはナメストニクとして息子のグレプを配したが、これはスヴャトスラフの子が有する継承権(ru)に反するものであった。 1146年から1151年の間のルーシの内戦(ru)期には、ヴォルィーニ公イジャスラフ、チェルニゴフ公ウラジーミルらと同盟を結び、ロストフ・スーズダリ公ユーリー、ノヴゴロド・セヴェルスキー公スヴャトスラフらと対立した。1146年、ユーリーの子のロスチスラフ(ru)、アンドレイ(ru)の軍によってリャザンは占領され、ロスチスラフは息子のグレプと共に、ポロヴェツ族の勢力圏へ逃走した。リャザン公位にはダヴィド、ついでイーゴリが就き、ムーロム公位にはウラジーミルが就いた(3名とも兄弟のスヴャトスラフの子)。ただし1149年にはムーロム公位を、1151年にはリャザン公位を再度手中に収めた。 1152年、自身の領有する小都市の破壊の報を聞きつけたロストフ・スーズダリ公ユーリーは、自領救援にリャザン公国軍を派遣しており、ムーロム・リャザンの連隊を率いたロスチスラフがその陣頭に立っている。ロスチスラフはチェルニゴフを包囲するが、この戦闘は失敗に終わった。 1153年にはオカ川河畔に都市ロスチスラヴリ(ロスチスラヴリ・リャザンスキー(ru))を建設した〔Никоновская летопись〕。同年(1154年とする説もある〔Соловьёв С. М.История России с древнейших времён 〕)、リャザンはユーリーの子のアンドレイに占領されたが、ポロヴェツ族の支援を受けたロスチスラフはこれを追い返した。 没年には諸説あるが、この後ロスチスラフは没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ (ムーロム公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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